AD-VEMTURE STUIDO OUTSIDER-BROS.COMとは
アウトサイダーは、広告とビジネスブログの制作チーム。 リアルビジネスのアシストに、アクセシビリティの高い企業ブログを導入提案。
広告企画制作
produce
動画広告のプランニング&プロデュース。 4K(シネマスクリーン)から1K(ネット動画)に至るまで、 デジタルコンテンツの映像制作配信の1ストップサービス。
映像企画・制作
produce
4K(シネマスクリーン)から1K(ネット動画)に至るまで、デジタルコンテンツの映像配信サービス。
著作権運用
Promise
基本契約(委託・共同・下請け等)を基に、著作権法の範囲内の管理義務を遵守します。ServiceArea
日本全国出張サービス。クリエイティブ局のない広告会社、クライアント直等状況に応じて対応いたします。
Specials
提携する京都老舗加工業(ビニール・皮革・金属等)のマニファクチャ企業との連動で広告プロモーション商品の開発、マーチャンダイジングのオリジナル製品開発等の短期製品化の実現。(カタログ製作中)
Works
著作権保護のため、資料用DVDを送ります。
ビジネス史上の大失敗決断6
ビジネスの責任者は、リスクとして時に大きな失敗もする。
史上ワースト6の紹介。source:labaQ
★★★1)ビートルズを拒否
責任者:デッカレコード・ロンドン支店マイクスミス&ディック
ロウ。
背景:マイクスミスがリバプールでビートルズを発掘したが
ディックロウの意見を認め契約をしなかった。
決断のセリフ:<はっきり言って、彼らのサウンドは気に入
らないよ。4人組でギターなんて終わってる。>
結果:EMIと契約したビートルズは空前のバンドブームを呼ぶ。
![]()
★★★2)E.Tを拒否
責任者:M&M's(エムアンドエムズ)で有名なMars Inc(マー
ズ社)のオーナー、ジョン&フォレスト・マーズ。
背景:1981年にユニバーサル・スタジオはマーズ社を招き、
新作の映画に監督のタイアップ案としてM&M's(エム
アンドエムズ)を利用してもいいかと尋ねた。
決断:マーズ社の兄弟の返事は「ノー」
結果:その監督スピルバーグはハーシー社と契約<ETの
お気に入り菓子>として、2週間で3倍の売り上げと
なった。宣伝効果は15~20M(15億円~20億円)あった
とハーシー社責任者ジャックドウドは語った。
★★★3)「M★A★S★H マッシュ」を安く売ってしまった
責任者:20世紀フォックスのテレビ部門の幹部
背景:1972年に始まったドラマの「M★A★S★H マッシュ」
を期待していませんでした。映画のセットの使いまわ
しで安くドラマが作れるだけだったから。
決断:財政難から、過去の7シリーズを将来の放映権を1話
につき13,000㌦(130万)でノークレームノーリターンで
売却し25万㌦(25億円)を手にした。
結果:4年後の79年から再放映されたシリーズは人気を呼
び、全168話の1話につき100万㌦の利益をもたらした。
★★★4)電話の導入を断る
責任者:1876年ウエスタンユニオン取締役ウィリアム・オートン
背景:当時の通信<電報>の占有でアメリカで最も力がある
企業だった。ボストンの富豪ガーディナー・グリース・ハ
バード氏が、新発明の製品特許を買わないかと話を持
ちかけてきた。
決断:ハバード氏は10万ドルで交渉しましたが、オートンはそ
れを冗談として一笑。発明したベルに直接返事を出した。
<電気製のおもちゃを我が社でどう利用しろと言うのか?>
結果:ベル氏はこの特許をそのまま20年も彼の電話会社で
持っていることになりました。名前はAmerican Telephone
and Telegraph(AT&T)と変更され、後にアメリカ最大の企
業となります。たった10万ドルで売られかけたこの特許は
史上最も価値のある特許だったのです。
★★★5)バドワイザーに対抗した
責任者:ウィスコンシン州ミルウォーキーにあるシュリッツ社の
頭取ロバート・ユーレイン・ジュニア
背景:1970年代、シュリッツビールははアメリカでバドワイザー
に次ぐ第2位の売り上げでした。1位奪還を狙い材料費を
カット、同じ量のビールを、より安く、より速く、作る手法を
編み出した。
決断:それまで40日かけて作っていたものを15日にまで短縮
し、モルトの代わりにもっと安価なコーンシロップに置き
換えました。さらにフォーム安定剤まで他のものに変え
ました。
結果:安くてすぐつくれるビールは非常にまずかった。しかも
安いビールの原材料はすぐ缶の底に沈み込み、まるで
それが鼻汁のように見えたそうです。鼻汁ビールは人気
が落ち1000万本を回収したにも関わらず、二度と売り上
げ回復は不能になった。
★★★6)車のモデルチェンジを拒否した
責任者:フォード・モーターの創始者ヘンリー・フォード
背景:1908年に最初のフォード・モデルTを市場に出した当時
は斬新なモデルでした。「安い車は他に市場に出回ってい
たが、斬新さと安心さの両方を提供できる車はなかった」
決断:1912年に彼と家族がヨーロッパ旅行へ行って帰ってき
たときに、スタッフたちが驚かせようとニューモデルを用意、
赤く塗られたピカピカの新車を彼は素手でめちゃくちゃにし
た。「馬小屋の色を塗り替えても馬小屋には変わりはない
、客間にはなれないさ」
結論:フォードの市場は1923年の国内売り上げで57%、1925
年には45%、1926年には34%にまで落ち込みました。
ようやく1927年にモデルチェンジを発表したときには、す
でに市場での競争力が低下しており、シボレーがついに
フォードの売り上げを超えました。
|
|

comment